広州市壁








広州市広東省省都で、こんにち大発展する中国沿岸部の中心都市である。

この地が開かれたのは、紀元前9世紀の周代のこと。当時は中華文明とは異質の存在だった楚や百越の人々によって“楚庭”という都市が造られたという。

秦漢期

秦の始皇帝は紀元前214年、任囂を主将とする征南軍を発動、この地を平らげ、南海郡を置いた。郡尉となった任囂は楚庭を郡都“番禺”とし、番禺城を修築した。俗称、任囂城とも呼ばれた。
当時の珠江は川幅が広く、1500mに達し、城壁は川水で洗われていたという。
任囂の死後、後を継いだ部下の趙佗は秦滅亡後の紀元前203年、南越国を興し自ら武王を称し、番禺を都とした。趙佗は初めて市壁を拡張し、全長6km弱に及んだ。
この時代は俗称“越城”とも“趙佗城”とも呼ばれベトナム北部にまで及ぶ広大な領域を確保し繁栄を誇ったが、漢元鼎6年(紀元前111)、武帝によって滅ぼされた。
武帝は南越王国の故地には交趾郡が置かれ、後に交州と改称、番禺が州都となった。
三国時代にはいり呉の孫権は黄武5年(226年)、交州に広州を分置し、街は初めて“広州”の名前を得た。広州は呉統治期にも市壁拡張が行われ、市域は北部へ大きく拡大した。

唐・五代十国

海のシルクロードの起点として海上貿易に大いに栄えた広州だが、唐朝中期の開元2年(714年)市舶司が置かれると世界中から貿易商人が来航し、商業区域は市壁外に広がっていった。
唐末、黄巣の乱で街は大きな損害を受けるが、続く五代十国時代には南漢の首都“興王府”となり栄えた。“南漢皇帝”劉龑は当市始まって以来3度目の市壁拡張を行い、帝都の面目を整えた。

宋・元代

五代十国を統一した宋代には十数度にわたって城壁の拡張と修繕が行われている。
宋慶歴4年(1045年)の拡張では南漢時代の市壁を基礎に周長3km弱の中城(子城)を築き、煕寧3年(1070年)には中城に接するように東城を造った。広州市壁はこれまで版築の土城だったが、このときから磚で築かれるようになった。
更に翌年西城を加え、三城が東西に並び建つ偉観を誇った。中でも西城が最大で、7.5kmに及ぶ市壁を持った。
南宋の開慶元年(1259年)には珠江まで雁翅城を延ばし、東の翅長は90丈(約280m)、西の翅長は50丈(156m)だった。
元初、天下の諸城が棄却されることとなり、至元15年(1278年)広州城も破壊されるが、至元30年(1293年)再建された。

明清期

明代に入ると広州に五回目の市壁拡張が施される。洪武13年(1380年)、宋元代まで3つに分かれていた街を一つに合わせ、周長は21里(約12km)に及んだ。
嘉靖42年(1563年)には60万を超える人口を収容すべく南部城外に周長6里(約3.5km)の外城を増築、元の街を“老城”外城を“新城”と呼んだ。

明代嘉靖35年(1556年)に広州に滞在したポルトガル人宣教師、ガスパール・ダ・クルスの『中国誌』に、広州の城壁について詳しい描写があるので以下長文だが紹介する。

 広州市はその周囲を、はなはだ堅牢で、立派なできばえの、かなりの高さを有する城壁に囲繞されているのである。中国人の確言したところによると、この城壁、造られてから一八〇〇年を経るにもかかわらず、見た目にはほとんど造りたてである。実に清潔な状態にあり、孔も裂け目もなく、崩壊を危惧させるようなものは何もない。そうであるには、わけがあるのだ。すなわち、人の背よりも少し高いところまでは方形石材で、それより上は、ほとんど陶器製であるかのような粘土作りの煉瓦でできているのである。城壁がいとも頑丈なわけは、ここにある。マラッカで一宇の礼拝堂を建てたときのこと、このような煉瓦の一個――中国から持ち込まれたものだが――は上等の鶴嘴でもってやっと砕くことができたほどだ。
 右のことに加え、広州市にも残り全ての市にも、ただ城壁の監視だけを任務とする国王の官吏がひとりおり、彼はその任務のために高い俸給をもらう。毎年、各省を訪れる地方巡察官は、その他の官員を訪ねると同様、この官吏をも訪ねる。彼がその職務をりっぱに、かつ周到に行っているかどうかを知るためである。そこになんらかの落ち度なり怠慢なりが認められれば、彼は職務を追われ、処罰される。城壁の修復のために経費が必要となれば、財務監督官はこれへ必要経費を与える義務がある。修復のなされぬまま放置しておくと、財務監督官もまた処罰されるという条件のもとにである。右のような事情のゆえに、いかなる市のいかなる城壁もつねに健全な状態に保たれ、手入れも行き届いているのである。
 広州市の城壁は同市の地面より若干高く造ってあるため、城壁の上に立つとひときわ涼しく感ぜられる。その周囲をぐるりと廻ると一万二三五〇パッソ(10127m)あり、八三の堡塁が配してある。これを実際に見た幾人かのポルトガル人の言葉によると、囲われた土地の大きさはリスボンのそれ並であり、他の連中の眼には、さらに大きいように思われた。その周囲が何パッソあるのか、堡塁の数がいくつであるか、これの算定は精密に行われる必要がある。堡塁と堡塁の間隔から算定を試みる者もいたが、それらすべてが同一の間隔であるとは限らず、長短の差があるわけだから、そうした算定法は正確であるはずがない。
 広州市は、他の全ての都市も同様であるが、その一方に河(珠江)を擁しており、その河沿いに、この市ばかりでなく他のすべての都市にも該当することなのだが、ほとんど塹壕の中にあるかのように建設されている。あるところには、満々と水を湛えた、かなりの幅の濠がぐるりと延びている。その濠と城壁のあいだはかなりの距離がとってあり、そこを大勢の人々がいっしょに駆けることもできるほどだ。こうした濠から採取された土は、濠と城壁のあいだに投入されているため、城壁の基底部は、その他の地面よりもずっと高くなっている。広州市はこうして囲われているにもかかわらず、濠の向こう側に一大欠陥がある。それは、河の反対側、城壁および濠の外側にひとつの小さな丘陵があることで、そこから城壁より内部の市全体が見通せてしまうのだ。
 城壁の回りには七つの城門がある。城門の入り口はいたって堂々として高く、堅牢にしてりっぱなできばえである。上方には、四角形ではなく段々状に造られた銃眼堡がる。城壁の他の箇所には、銃眼堡はない。城壁の壁の厚さであるが、城門の入口付近で一二パッソ(9.84m)である。城門はいずれも上から下へ鉄板で補強してあるうえ、その前には、いたって頑丈な、上げ下げのできる扉がついている。これらの扉はつねに上がっていてめったに下りることはないが、一朝有事の際の準備は万端整えてある。
 いかなる城門にもその入口付近に胸墻(敵の射撃を防ぐため胸の高さにまで築いた壁)がある。河沿いに広がる郊外の側の胸墻には、それぞれ三つずつの扉がある。ひとつの扉は正面に、残りのふたつは両脇にある。後者は城壁沿いに走る通りへの連絡用になる。胸墻付近の城壁は内部の城壁とほとんど同じ高さである。胸墻の正面にある門は、内部の城壁のそれと同様であって、ここにもまた上げ下げのできる扉がついている。胸墻の裏にある残りの門はいずれも小さい。郊外ではなくただ野原が広がっている側にある胸墻には、ただ一つの門があるだけで、この門も城門の正面にあるのではなく、その裏手の片側にあるのみである。
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民国初期

辛亥革命後の1918年、広州市政公所成立後、環状道路建設のため市壁は取り壊され始め、22年頃までにほぼ全面撤去が完了した。

現在、そして一部復元計画

現在、明代城壁の一部が越秀公園(往時の西北部)に1100m残り、170mが修復されている。
2009年3月には越秀公園に続く小北路に城壁の一部と“小北門”が縮小版で復元されると発表された。



1:1913年刊「中国新輿図」
2:1885年撮影の西城門(城外より)
3:民国初期撮影の西城門。城内よりの撮影だが城楼の毀損が激しい。
4:1885年撮影の城壁と鎮海楼(?)。となると写真は越秀山上か。
5:1885年撮影の城壁。
6:小北門と城壁の復元予想図。

*1:講談社学術文庫 クルス『中国誌』より、日埜博司訳