広州市壁








広州市広東省省都で、こんにち大発展する中国沿岸部の中心都市である。

この地が開かれたのは、紀元前9世紀の周代のこと。当時は中華文明とは異質の存在だった楚や百越の人々によって“楚庭”という都市が造られたという。

秦漢期

秦の始皇帝は紀元前214年、任囂を主将とする征南軍を発動、この地を平らげ、南海郡を置いた。郡尉となった任囂は楚庭を郡都“番禺”とし、番禺城を修築した。俗称、任囂城とも呼ばれた。
当時の珠江は川幅が広く、1500mに達し、城壁は川水で洗われていたという。
任囂の死後、後を継いだ部下の趙佗は秦滅亡後の紀元前203年、南越国を興し自ら武王を称し、番禺を都とした。趙佗は初めて市壁を拡張し、全長6km弱に及んだ。
この時代は俗称“越城”とも“趙佗城”とも呼ばれベトナム北部にまで及ぶ広大な領域を確保し繁栄を誇ったが、漢元鼎6年(紀元前111)、武帝によって滅ぼされた。
武帝は南越王国の故地には交趾郡が置かれ、後に交州と改称、番禺が州都となった。
三国時代にはいり呉の孫権は黄武5年(226年)、交州に広州を分置し、街は初めて“広州”の名前を得た。広州は呉統治期にも市壁拡張が行われ、市域は北部へ大きく拡大した。

唐・五代十国

海のシルクロードの起点として海上貿易に大いに栄えた広州だが、唐朝中期の開元2年(714年)市舶司が置かれると世界中から貿易商人が来航し、商業区域は市壁外に広がっていった。
唐末、黄巣の乱で街は大きな損害を受けるが、続く五代十国時代には南漢の首都“興王府”となり栄えた。“南漢皇帝”劉龑は当市始まって以来3度目の市壁拡張を行い、帝都の面目を整えた。

宋・元代

五代十国を統一した宋代には十数度にわたって城壁の拡張と修繕が行われている。
宋慶歴4年(1045年)の拡張では南漢時代の市壁を基礎に周長3km弱の中城(子城)を築き、煕寧3年(1070年)には中城に接するように東城を造った。広州市壁はこれまで版築の土城だったが、このときから磚で築かれるようになった。
更に翌年西城を加え、三城が東西に並び建つ偉観を誇った。中でも西城が最大で、7.5kmに及ぶ市壁を持った。
南宋の開慶元年(1259年)には珠江まで雁翅城を延ばし、東の翅長は90丈(約280m)、西の翅長は50丈(156m)だった。
元初、天下の諸城が棄却されることとなり、至元15年(1278年)広州城も破壊されるが、至元30年(1293年)再建された。

明清期

明代に入ると広州に五回目の市壁拡張が施される。洪武13年(1380年)、宋元代まで3つに分かれていた街を一つに合わせ、周長は21里(約12km)に及んだ。
嘉靖42年(1563年)には60万を超える人口を収容すべく南部城外に周長6里(約3.5km)の外城を増築、元の街を“老城”外城を“新城”と呼んだ。

明代嘉靖35年(1556年)に広州に滞在したポルトガル人宣教師、ガスパール・ダ・クルスの『中国誌』に、広州の城壁について詳しい描写があるので以下長文だが紹介する。

 広州市はその周囲を、はなはだ堅牢で、立派なできばえの、かなりの高さを有する城壁に囲繞されているのである。中国人の確言したところによると、この城壁、造られてから一八〇〇年を経るにもかかわらず、見た目にはほとんど造りたてである。実に清潔な状態にあり、孔も裂け目もなく、崩壊を危惧させるようなものは何もない。そうであるには、わけがあるのだ。すなわち、人の背よりも少し高いところまでは方形石材で、それより上は、ほとんど陶器製であるかのような粘土作りの煉瓦でできているのである。城壁がいとも頑丈なわけは、ここにある。マラッカで一宇の礼拝堂を建てたときのこと、このような煉瓦の一個――中国から持ち込まれたものだが――は上等の鶴嘴でもってやっと砕くことができたほどだ。
 右のことに加え、広州市にも残り全ての市にも、ただ城壁の監視だけを任務とする国王の官吏がひとりおり、彼はその任務のために高い俸給をもらう。毎年、各省を訪れる地方巡察官は、その他の官員を訪ねると同様、この官吏をも訪ねる。彼がその職務をりっぱに、かつ周到に行っているかどうかを知るためである。そこになんらかの落ち度なり怠慢なりが認められれば、彼は職務を追われ、処罰される。城壁の修復のために経費が必要となれば、財務監督官はこれへ必要経費を与える義務がある。修復のなされぬまま放置しておくと、財務監督官もまた処罰されるという条件のもとにである。右のような事情のゆえに、いかなる市のいかなる城壁もつねに健全な状態に保たれ、手入れも行き届いているのである。
 広州市の城壁は同市の地面より若干高く造ってあるため、城壁の上に立つとひときわ涼しく感ぜられる。その周囲をぐるりと廻ると一万二三五〇パッソ(10127m)あり、八三の堡塁が配してある。これを実際に見た幾人かのポルトガル人の言葉によると、囲われた土地の大きさはリスボンのそれ並であり、他の連中の眼には、さらに大きいように思われた。その周囲が何パッソあるのか、堡塁の数がいくつであるか、これの算定は精密に行われる必要がある。堡塁と堡塁の間隔から算定を試みる者もいたが、それらすべてが同一の間隔であるとは限らず、長短の差があるわけだから、そうした算定法は正確であるはずがない。
 広州市は、他の全ての都市も同様であるが、その一方に河(珠江)を擁しており、その河沿いに、この市ばかりでなく他のすべての都市にも該当することなのだが、ほとんど塹壕の中にあるかのように建設されている。あるところには、満々と水を湛えた、かなりの幅の濠がぐるりと延びている。その濠と城壁のあいだはかなりの距離がとってあり、そこを大勢の人々がいっしょに駆けることもできるほどだ。こうした濠から採取された土は、濠と城壁のあいだに投入されているため、城壁の基底部は、その他の地面よりもずっと高くなっている。広州市はこうして囲われているにもかかわらず、濠の向こう側に一大欠陥がある。それは、河の反対側、城壁および濠の外側にひとつの小さな丘陵があることで、そこから城壁より内部の市全体が見通せてしまうのだ。
 城壁の回りには七つの城門がある。城門の入り口はいたって堂々として高く、堅牢にしてりっぱなできばえである。上方には、四角形ではなく段々状に造られた銃眼堡がる。城壁の他の箇所には、銃眼堡はない。城壁の壁の厚さであるが、城門の入口付近で一二パッソ(9.84m)である。城門はいずれも上から下へ鉄板で補強してあるうえ、その前には、いたって頑丈な、上げ下げのできる扉がついている。これらの扉はつねに上がっていてめったに下りることはないが、一朝有事の際の準備は万端整えてある。
 いかなる城門にもその入口付近に胸墻(敵の射撃を防ぐため胸の高さにまで築いた壁)がある。河沿いに広がる郊外の側の胸墻には、それぞれ三つずつの扉がある。ひとつの扉は正面に、残りのふたつは両脇にある。後者は城壁沿いに走る通りへの連絡用になる。胸墻付近の城壁は内部の城壁とほとんど同じ高さである。胸墻の正面にある門は、内部の城壁のそれと同様であって、ここにもまた上げ下げのできる扉がついている。胸墻の裏にある残りの門はいずれも小さい。郊外ではなくただ野原が広がっている側にある胸墻には、ただ一つの門があるだけで、この門も城門の正面にあるのではなく、その裏手の片側にあるのみである。
*1

民国初期

辛亥革命後の1918年、広州市政公所成立後、環状道路建設のため市壁は取り壊され始め、22年頃までにほぼ全面撤去が完了した。

現在、そして一部復元計画

現在、明代城壁の一部が越秀公園(往時の西北部)に1100m残り、170mが修復されている。
2009年3月には越秀公園に続く小北路に城壁の一部と“小北門”が縮小版で復元されると発表された。



1:1913年刊「中国新輿図」
2:1885年撮影の西城門(城外より)
3:民国初期撮影の西城門。城内よりの撮影だが城楼の毀損が激しい。
4:1885年撮影の城壁と鎮海楼(?)。となると写真は越秀山上か。
5:1885年撮影の城壁。
6:小北門と城壁の復元予想図。

*1:講談社学術文庫 クルス『中国誌』より、日埜博司訳

ラサファ―砂に埋もれる聖都―








シリア中央部、ユーフラテス川の西26kmの地点に、ラサファ(Rasafa,Resafa)という都市遺跡がある。
周囲は見渡す限りの砂漠で、風の吹き渡る音しか聞こえない寂しい場所だが、この街の歴史は古い。

アッシリア時代

史書に初めて登場するのは紀元前9世紀、アッシリア帝国領としてである。
“Rasappa(燃えている石炭)”と呼ばれたこの街は、帝国のこの地方における統治と商業の中心地だった。

旧約聖書にも次のような記述があり、レツェフ(Rezeph)こそがこの街を指すと考えられている。

わたしの先祖たちはゴザン、ハラン、レツェフおよびテラサルにいたエデンの人々を打ち滅ぼしたが、これらの諸国の神々は彼らを救いえたであろうか。
                   (列王記下 19:12およびイザヤ書37:12)

この記述はアッシリアセンナケリブ(Sennacherib,705-618 BC)からユダ王国の王ヒゼキア(715-687 BC)への降伏勧告の手紙の一部で、センナケリブは「レツェフなど諸都市の神が街を守れなかったように、お前の神はエルサレムを守ることは出来ない」と脅している。

その後タドモル(パルミラ)王国の重要な都市ともなり、アレッポ、デュラ・エウロポス、パルミラを結ぶキャラバン通商路の要衝として大いに繁栄した。

ローマ時代―聖地セルギオポリス誕生―

272年にパルミラがローマに滅ぼされると、街はローマの手に落ち、ディオクレティアヌス帝(284-305)はササン朝の脅威に備え、この街を要塞化した。

この街が再び大繁栄するのは、4世紀になって聖セルギウス信仰の一大巡礼地となってからである。

セルギウスとバッカスはローマ軍士官だったが、キリスト教徒であったのでユピテル神への信仰を拒絶した。キリスト教を弾圧をしていたディオクレティアヌス帝は激怒し、彼らをシリアへと送り、処罰させることとした。彼らは女性物ドレスを着せられ大通りを歩かされるなど様々な辱めを受けさせられ、笞刑によりバッカスは死んでしまう。セルギウスは板を足に釘打たれた上で徒歩ラサファまで連行され、最後には首を切られ処刑された。305年のことである。

380年にローマがキリスト教を国教化した後、ラサファには彼ら殉教者を祀る教会が造られ、セルギウスとバッカスは東ローマの守護聖人となり、多くの巡礼者を集めるようになった。

ローマ皇帝アナスタシウス(491-518)は長大な市壁で街を囲み、52もの塔を建て、守護聖人にちなみ街をセルギオポリス(SELGIOPOLIS)と改称した。一時、帝は自らの名にちなみ、この街をアナスタシオポリスと改名したが、すぐにセルギオポリスに戻された。

527年に即位したユスティニアヌス1世はササン朝ペルシアに対抗すべく市壁の更なる強化を図る。それまで石で出来ていた市壁を最新の軍事技術を取り入れ、日干し煉瓦で築き直したのだ。
ペルシャの侵攻に対しセルギオポリスは抵抗し続けたが、616年、ホスロー2世によりついに陥落した。ビザンツ帝国は重要な拠点を失い、その後ヘラクレイオス帝(610-641)が一時奪還するものの、街はほどなく勃興したイスラム帝国に組み込まれることになる。

イスラム帝国―カリフに愛された街―

イスラム帝国の時代。ウマイヤ朝第10代カリフ、ヒシャーム・イブン・アブドアルマリク(724-743)はこの街を愛し、宮殿を建て、聖セルギウス教会の隣にモスクを建てた。彼の統治時代に街は壊滅的な地震に襲われるが、代々のカリフにより再建され、ウマイヤ朝通じて重要な保養地であり続けた。ヒシャームは街を“Rasafet Hisham(ヒシャームのラサファ)”と改称し、ここに埋葬されたという。
750年にアッバース朝が建つとウマイヤ朝王族はほぼ皆殺しにされ、ラサファの宮殿、モスクも破壊され、ヒシャームの墓は暴かれ遺体はむち打たれた上焼却された。

最後の時―モンゴル・マムルーク抗争の果て―

アッバース朝末期、ラサファはモンゴルの侵攻を受ける。西征総司令フレグの侵攻を丸一年留めたラサファだったが、最終的には陥落した。
その後13世紀後期、マムルーク朝第五代スルタン・バイバルスはモンゴル軍を追い、ラサファを占拠。街は完全に破壊され、住民は聖セルギウスの遺物とともにハマ(Hama)への避難を強いられた。
以降、文献記録に街が登場することはない。

現在格別の保存措置も発掘も行われている様子もなく、崩れかけた市壁の内部は教会、モスクも砂に埋もれたままとなっている。



2007年GW訪問。


1:google mapによる上空からの写真。市壁は長辺約600m、短辺400m。
2:外側から見た市壁。馬面がほぼ等間隔で設けられている。
3:城壁の高さは7m程度か。
4:崩れかけているが、半周程度城壁上を歩ける。
5:城壁内部。大部分が砂に埋もれている。
6:最も装飾の華麗な北門。
7:聖セルギウス教会跡。

パリ近郊の中世都市・サンリス市壁





パリ北駅からクルイユ行きの列車で約30分。
競馬で知られるシャンティイの街からさらにバスで20分の所に、中世のまま取り残された町が残る。
サンリス(Senlis)、というこの町の起源はガリア人(ケルト人)の村落にさかのぼるが、本格的な都市建設はローマによるガリア征服(B.C.58〜51)の後のことである。
ローマ属州ガリアのアウグストマグス(Augustomagus)、またはシヴィタス・シルヴァネクトゥム(Civitas Silvanectium)と呼ばれた時代、フランク人の侵攻に対抗すべく、サンリス最初の市壁が築かれた。
今見られる高さ7mの内壁はこの時代(3世紀)の物で、全長840mのうち約半分が現存する。城壁には当初26の塔が設けられていた。
城壁は突貫作業で造られたと考えられ、市内の公共建築からの転用材が多く見られる。
この3世紀のローマ市壁は12世紀まで使い続けられ、その間センリスはメロビング朝・カロリング朝を通じてフランスの有力貴族たちの憩う町となっていった。
987年にはカロリング朝ルイ5世死去後の王位継承紛争において、本市で聖俗諸侯会議がもたれ、パリ伯ユーグ・カペーの新王推挙、すなわちカペー朝誕生という歴史的事件も起きている。

12世紀から13世紀にかけ、ノルマン人の侵攻に備え、ローマ市壁の外側に第二の市壁が築かれる。
現在サンリスと言えば、この第二の市壁内部を指す。

2008年7月訪問。


1:サンリスの航空写真。3世紀の第一市壁と12世紀の第二市壁が良くわかる。
2:ローマ時代の市壁。
3:fausse porte(偽の門)と呼ばれる市門の名残。
4:城壁には塔が残る。塗り込められたアーチ窓はカロリング朝時代の物。
5:12世紀の第二市壁。

紹興城壁


浙江省の中規模都市・紹興
紹興酒で知られるこの街は、夏王朝時代の禹が治水に訪れた時から歴史が始まる。
紀元前490年には“臥薪嘗胆”の故事で知られる越王勾践が都を置き、始皇帝の統一後は会稽郡が置かれた。
隋唐期に越州が置かれ、さらに南宋紹興元年(1131年)時の皇帝高宗が金の圧迫を逃れ一時都したため紹興府と改称された。
越都以来紹興の城壁は拡大され続け、城門11を開き、内6門は水城門という“水郷都市”であったが、1922年に道路建設のため西郭門から昌安門までの1836mが撤去されてしまう。
日中戦争最中の1938年2月、抗戦の必要上22万弱の兵力を投入して11720mの全城壁が撤去され、環状路が造成された。

紹興へは紹興酒を飲みに3度行っているが、ほんの一部残っているという城壁残滓は撮れずじまい。

上:1930年代の水城門。
下:1931年発行の「中国新輿図」の紹興。最初に撤去された西郭門〜昌安門は地図の上部にあたる。

ローマ・セルウィウスの城壁


ローマ最古の城壁、セルウィウスの城壁。紀元前509年に第6代ローマ王セルウィウスが造築した。
ローマの七つの丘を囲む全周8kmの城壁は、後世の物と違い自然石を加工して出来ている。
城壁建造後、市内の人口は大いに増加し次第に城壁外に住居が広がっていく。
更に蛮族の跋扈し始めた3世紀、時の皇帝アウレリウスは新たに全長19mに及ぶ煉瓦の城壁、所謂“アウレリアヌスの城壁”を築く。(これについてはいずれ詳述予定)

王政時代の名残であるセルウィウスの城壁は、今ではローマ・テルミニ駅前にごく一部が保存されているのみである。

上:セルウィウスの城壁。
下:ローマ地図。外側の線がアウレリアヌスの城壁、内側の小さな線がセルウィウスの城壁。

2008年夏訪問。

エルサレム市壁-起源を聖書にたどる-






世界最大の聖地エルサレム
市壁に囲まれた1平方キロに満たない旧市街は、「エルサレムの旧市街とその城壁群」として世界遺産に登録されている。

イスラエル以前

エルサレムの地には紀元前3000年ころから人々が住み始め「神殿の丘」の南側からは紀元前18世紀の城壁跡も見つかっている。
その後エルサレムはエブス人により発展していったが、紀元前1003年、イスラエル王国ダビデ王により征服された。

イスラエル王国

ダビデはこの要害に住み、それをダビデの町と呼び、ミロから内部まで、周囲に城壁を築いた。(サムエル記下5:9)

続くソロモン王治下の紀元前440年ごろに市壁は拡張され、より堅固なものとなる。

ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。彼はファラオの娘を王妃としてダビデの町に迎え入れ、宮殿、神殿、エルサレムを囲む城壁の造営が終わるのを待った。(列王記上3:1)

ソロモンの死後イスラエル王国は分裂(紀元前930年頃)、エルサレムは南のユダ王国の首都となった。
両王国は小競り合いを繰り返し、ユダ王国イスラエル王国軍が攻め込むこともあった。その際城壁も被害を受けている。

イスラエルの王ヨアシュはベト・シェメシュで、アハズヤの孫でヨアシュの子であるユダの王アマツヤを捕らえ、エルサレムに来て、その城壁をエフライムの門から角の門まで四百アンマに渡って破壊した。(列王記下14:13) ※400アンマは約180m。

その後紀元前722年、アッシリア帝国によりイスラエル王国は滅亡する。ユダ王国のヒゼキヤ王はエルサレムへのアッシリア侵攻に対応するため市壁の修復・拡大を行った。その城壁は厚さ7mにおよび、一部が発掘されている。

王は意欲的に、壊れた城壁を修理し、その上に塔を立て、外側にもう一つの城壁を築いた。ダビデの町のミロを堅固にし、多くの投げ槍と盾を作った。(歴代誌 32:5)

アッシリアに替わって大勢力となった新バビロニア王国のネブカドネツァル2世は3度(BC597、BC586、BC582)に渡ってエルサレムを攻撃、城壁を含む全ての街を破壊しエルサレムの民をバビロンに連れ去った。世に言う「バビロン捕囚」である。

神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。彼らはペルシアの王国に覇権が移るまで、バビロンの王とその王子たちの僕となった。(歴代誌 36:19-20)

ペルシア時代

紀元前539年、新バビロニア王国を倒したアケメネス朝ペルシアは、囚われのユダヤ人達に帰還を許した。エルサレム陥落時の王、ヨヤキンの孫・ゼルバベルに率いられエルサレムに戻った人々は神殿と城壁の再建を進めた。

王のもとからこちらに上って来たユダの者らがエルサレムに着き、反逆と悪意の都を再建していることをご存じでしょうか。彼らは既に城壁の工事を始め、基礎を修復しました。ご存じでしょうが、もしその都が再建され、城壁が完成しますと、彼らは年貢、関税、交通税を納めず、王に次々と損害を与えることになるに相違ありません。 (エズラ記 4:12-13)

しかしサマリア人と帰還したユダヤ人との関係は微妙なもので、上記のようなサマリア人の讒言によりペルシア王より再建の中止を命ぜられるなどした。
しかし律法学者エズラとネヘミヤは破壊された城壁の現状を調査し、苦労を重ね再建を果たす。

彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。(ネヘミヤ記 1:3)
夜中に谷の門を出て、竜の泉の前から糞の門へと巡って、エルサレムの城壁を調べた。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた。(ネヘミヤ記2:13)
やがてわたしは彼らに言った。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」(ネヘミヤ記 2:17)
谷の門を補強したのはハヌン、それにザノアの住民である。彼らはそれを築き上げ、扉と金具とかんぬきを付けた。それに糞の門まで千アンマにわたって城壁を補強した。 (ネヘミヤ記 3:13 ※千アンマは450m)
城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。(ネヘミヤ記 6:15)

アケメネス朝ペルシアはアレキサンドロス大王により滅ぼされ、更にセレウコス朝シリアが西アジアの覇権を握る。セレウコス朝はローマのポンペイウスの軍により終焉を迎え、エルサレムもそれに従ってローマ属領となる。

ローマ時代

 ローマの庇護の元、紀元前37年にユダヤ人の王となったヘロデ大王は大神殿を大改造し、第二城壁を築きエルサレムを拡張する。このヘロデ大王による第二神殿の一部が現在のエルサレム中心部に現存し、「嘆きの壁」としてユダヤ教徒の聖地となっている。
 ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスの治下、イエスゴルゴダの丘で処刑されるが、現エルサレムでは城壁内のゴルゴダの丘も、当時は市壁外にあった。
 アンティパスを継いだのはヘロデ大王の孫、ヘロデ・アグリッパで、彼は41年から44年にかけて第二城壁の北側に広大な“第三城壁”を築く。
 ここにエルサレムは現在の規模と等しくなり大いに繁栄するがローマ支配に対するユダヤ人の独立志向は高まる一方であった。
 西暦66年に始まる第一次ユダヤ戦争はローマの総攻撃にエルサレムは陥落、後に当blogでも紹介する予定のマサダの砦(ヘロデ大王の築造)における籠城戦を経て反乱軍は全滅する。
 そして132年、再びユダヤ人が立ち上がった第二次ユダヤ戦争に於いてローマ軍はユダヤ独立勢力の根絶をはかり、エルサレムを完全に破壊した。
 当市は135年、ハドリアヌス帝によりローマ都市として新規に建設され「アエリア・カピトリーナ」と改称、城壁も築き直された。
 313年にローマがキリスト教を国教化するとこの名は廃されエルサレムの旧に復し、内部に多くの聖堂が造られた。

イスラム帝国と十字軍

 エルサレムはその後東ローマ帝国の治下となるが、638年、勃興したイスラムの第二代カリフ・ウマルによって包囲され、ムスリムの手に落ちる。正統カリフ、ウマイヤ、アッバース各朝支配の後970年、シーア派ファーティマ朝領となる。
 更にセルジューク朝支配を経てモスクの建ち並ぶイスラム都市となったエルサレムだが、十字軍の進入により1099年、エルサレム王国が成立する。
 100年後の1187年、ジハードを宣言したアイユーブ朝サラディンイスラムの手に奪還。しかしサラディンの死後イスラム勢力は内部分裂し、1219年にはアイユーブ朝ダマスカスのスルタン、アル・ムアッザムにより完全に破壊される。
 1229年には条約によりエルサレム神聖ローマ皇帝・フリードリヒ2世に渡される。1239年に彼は市壁の再建に取りかかるが、それもカラクの首長ダウドにより妨害され、実現しなかった。
 1243年、エルサレムは再びキリスト教徒のものとなるが、翌44年、ホラズムシャー朝の残党により占拠される。ホラズムシャー勢力からエルサレムを奪ったのは、アイユーブ朝に次ぐマムルーク朝である。
 マムルーク朝治下には破壊された城壁の修復は殆ど進まなかったが、内部にはマドラサ(イスラム教の学術研究機関)が多数建てられた。

オスマン帝国による最終的再建

 1517年、オスマン帝国マムルーク朝を倒し、エルサレムは以降1917年までトルコ領となる。オスマン帝国最盛期のスルタン、スレイマン大帝により1535年から1538年にかけて300年ぶりに再建されたのが現在まで残る市壁である。



城壁延長約4.5km、高さ5〜15m、厚さ3m。


写真1:ダマスカス門。多くの旅行者はここから入城する。
写真2:オリーブの丘から望むエルサレム旧市街全景。
写真3:市壁は現在も常に修復中。
写真4:シオン門。
写真5:ヘロデ・アグリッパ時代のエルサレム市の模型。手前に広がっているのが“第三の城壁”で、その中にあるのが第二城壁。
写真6:ライオン門。

2007年GW訪問。
 

瀋陽・北陵城壁


瀋陽は17世紀初頭、清朝最初の都が置かれ、盛京と名付けられた。
郊外には初代・太祖ヌルハチと2代・太宗ホンタイジの二人の皇帝が眠る陵墓がある。
前者を福陵(東陵)、後者を昭陵(北陵)という。

今回紹介するのはホンタイジとその皇后の眠る昭陵。
建立は順治8年(1651年)で、着工から8年を掛け完成した。
盛京の北方約10里(6km弱)にあることから北陵とも呼ばれ、墓域も18万平方メートルと清の“関外三陵”のうち、最大である。

長い参道の先には「方城」と呼ばれる城壁で四角く囲まれた祭祀空間と、実際の陵墓を囲む円形の城壁、「宝城」がある。

写真はその「方城」部分の城門(隆恩門)と城壁である。
方城の城壁は青みがかった煉瓦「青磚」で造られ、南側(写真の部分)の高さは2丈3尺3寸(約7.46m)ある。周囲495丈9尺(1.6km弱)、城壁上部の寛さは2mである。

2004年11月訪問。