エルサレム市壁-起源を聖書にたどる-






世界最大の聖地エルサレム
市壁に囲まれた1平方キロに満たない旧市街は、「エルサレムの旧市街とその城壁群」として世界遺産に登録されている。

イスラエル以前

エルサレムの地には紀元前3000年ころから人々が住み始め「神殿の丘」の南側からは紀元前18世紀の城壁跡も見つかっている。
その後エルサレムはエブス人により発展していったが、紀元前1003年、イスラエル王国ダビデ王により征服された。

イスラエル王国

ダビデはこの要害に住み、それをダビデの町と呼び、ミロから内部まで、周囲に城壁を築いた。(サムエル記下5:9)

続くソロモン王治下の紀元前440年ごろに市壁は拡張され、より堅固なものとなる。

ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。彼はファラオの娘を王妃としてダビデの町に迎え入れ、宮殿、神殿、エルサレムを囲む城壁の造営が終わるのを待った。(列王記上3:1)

ソロモンの死後イスラエル王国は分裂(紀元前930年頃)、エルサレムは南のユダ王国の首都となった。
両王国は小競り合いを繰り返し、ユダ王国イスラエル王国軍が攻め込むこともあった。その際城壁も被害を受けている。

イスラエルの王ヨアシュはベト・シェメシュで、アハズヤの孫でヨアシュの子であるユダの王アマツヤを捕らえ、エルサレムに来て、その城壁をエフライムの門から角の門まで四百アンマに渡って破壊した。(列王記下14:13) ※400アンマは約180m。

その後紀元前722年、アッシリア帝国によりイスラエル王国は滅亡する。ユダ王国のヒゼキヤ王はエルサレムへのアッシリア侵攻に対応するため市壁の修復・拡大を行った。その城壁は厚さ7mにおよび、一部が発掘されている。

王は意欲的に、壊れた城壁を修理し、その上に塔を立て、外側にもう一つの城壁を築いた。ダビデの町のミロを堅固にし、多くの投げ槍と盾を作った。(歴代誌 32:5)

アッシリアに替わって大勢力となった新バビロニア王国のネブカドネツァル2世は3度(BC597、BC586、BC582)に渡ってエルサレムを攻撃、城壁を含む全ての街を破壊しエルサレムの民をバビロンに連れ去った。世に言う「バビロン捕囚」である。

神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。彼らはペルシアの王国に覇権が移るまで、バビロンの王とその王子たちの僕となった。(歴代誌 36:19-20)

ペルシア時代

紀元前539年、新バビロニア王国を倒したアケメネス朝ペルシアは、囚われのユダヤ人達に帰還を許した。エルサレム陥落時の王、ヨヤキンの孫・ゼルバベルに率いられエルサレムに戻った人々は神殿と城壁の再建を進めた。

王のもとからこちらに上って来たユダの者らがエルサレムに着き、反逆と悪意の都を再建していることをご存じでしょうか。彼らは既に城壁の工事を始め、基礎を修復しました。ご存じでしょうが、もしその都が再建され、城壁が完成しますと、彼らは年貢、関税、交通税を納めず、王に次々と損害を与えることになるに相違ありません。 (エズラ記 4:12-13)

しかしサマリア人と帰還したユダヤ人との関係は微妙なもので、上記のようなサマリア人の讒言によりペルシア王より再建の中止を命ぜられるなどした。
しかし律法学者エズラとネヘミヤは破壊された城壁の現状を調査し、苦労を重ね再建を果たす。

彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。(ネヘミヤ記 1:3)
夜中に谷の門を出て、竜の泉の前から糞の門へと巡って、エルサレムの城壁を調べた。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていた。(ネヘミヤ記2:13)
やがてわたしは彼らに言った。「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」(ネヘミヤ記 2:17)
谷の門を補強したのはハヌン、それにザノアの住民である。彼らはそれを築き上げ、扉と金具とかんぬきを付けた。それに糞の門まで千アンマにわたって城壁を補強した。 (ネヘミヤ記 3:13 ※千アンマは450m)
城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。(ネヘミヤ記 6:15)

アケメネス朝ペルシアはアレキサンドロス大王により滅ぼされ、更にセレウコス朝シリアが西アジアの覇権を握る。セレウコス朝はローマのポンペイウスの軍により終焉を迎え、エルサレムもそれに従ってローマ属領となる。

ローマ時代

 ローマの庇護の元、紀元前37年にユダヤ人の王となったヘロデ大王は大神殿を大改造し、第二城壁を築きエルサレムを拡張する。このヘロデ大王による第二神殿の一部が現在のエルサレム中心部に現存し、「嘆きの壁」としてユダヤ教徒の聖地となっている。
 ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスの治下、イエスゴルゴダの丘で処刑されるが、現エルサレムでは城壁内のゴルゴダの丘も、当時は市壁外にあった。
 アンティパスを継いだのはヘロデ大王の孫、ヘロデ・アグリッパで、彼は41年から44年にかけて第二城壁の北側に広大な“第三城壁”を築く。
 ここにエルサレムは現在の規模と等しくなり大いに繁栄するがローマ支配に対するユダヤ人の独立志向は高まる一方であった。
 西暦66年に始まる第一次ユダヤ戦争はローマの総攻撃にエルサレムは陥落、後に当blogでも紹介する予定のマサダの砦(ヘロデ大王の築造)における籠城戦を経て反乱軍は全滅する。
 そして132年、再びユダヤ人が立ち上がった第二次ユダヤ戦争に於いてローマ軍はユダヤ独立勢力の根絶をはかり、エルサレムを完全に破壊した。
 当市は135年、ハドリアヌス帝によりローマ都市として新規に建設され「アエリア・カピトリーナ」と改称、城壁も築き直された。
 313年にローマがキリスト教を国教化するとこの名は廃されエルサレムの旧に復し、内部に多くの聖堂が造られた。

イスラム帝国と十字軍

 エルサレムはその後東ローマ帝国の治下となるが、638年、勃興したイスラムの第二代カリフ・ウマルによって包囲され、ムスリムの手に落ちる。正統カリフ、ウマイヤ、アッバース各朝支配の後970年、シーア派ファーティマ朝領となる。
 更にセルジューク朝支配を経てモスクの建ち並ぶイスラム都市となったエルサレムだが、十字軍の進入により1099年、エルサレム王国が成立する。
 100年後の1187年、ジハードを宣言したアイユーブ朝サラディンイスラムの手に奪還。しかしサラディンの死後イスラム勢力は内部分裂し、1219年にはアイユーブ朝ダマスカスのスルタン、アル・ムアッザムにより完全に破壊される。
 1229年には条約によりエルサレム神聖ローマ皇帝・フリードリヒ2世に渡される。1239年に彼は市壁の再建に取りかかるが、それもカラクの首長ダウドにより妨害され、実現しなかった。
 1243年、エルサレムは再びキリスト教徒のものとなるが、翌44年、ホラズムシャー朝の残党により占拠される。ホラズムシャー勢力からエルサレムを奪ったのは、アイユーブ朝に次ぐマムルーク朝である。
 マムルーク朝治下には破壊された城壁の修復は殆ど進まなかったが、内部にはマドラサ(イスラム教の学術研究機関)が多数建てられた。

オスマン帝国による最終的再建

 1517年、オスマン帝国マムルーク朝を倒し、エルサレムは以降1917年までトルコ領となる。オスマン帝国最盛期のスルタン、スレイマン大帝により1535年から1538年にかけて300年ぶりに再建されたのが現在まで残る市壁である。



城壁延長約4.5km、高さ5〜15m、厚さ3m。


写真1:ダマスカス門。多くの旅行者はここから入城する。
写真2:オリーブの丘から望むエルサレム旧市街全景。
写真3:市壁は現在も常に修復中。
写真4:シオン門。
写真5:ヘロデ・アグリッパ時代のエルサレム市の模型。手前に広がっているのが“第三の城壁”で、その中にあるのが第二城壁。
写真6:ライオン門。

2007年GW訪問。